お花のある生活にちょっとだけあこがれる。

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お花のある生活とは無縁な生活者です。理由として、お花にあんまり興味がないから。と、猫を飼っているから、です。でもね、わたしの母はお花が好きでね、実家には常にお花がありました。リビング、キッチン、そして玄関。庭にはお花とともに、緑もたくさんありました。松とかそんな立派なものではなかったけれど、庭師さんが定期的にいらしてきれいに整えて下さっていたのだそう。当時のわたしはそんなこと知らなくて、大人になってから聞かされました。いつも見ていたキッチンの窓からの庭の景色。あれは、誰かの手によりきちんと整えられていたものなのだと。そこへの感謝は全くなくて、それはとても当たり前のものだと、きちんとした価値すら見出せていたなかった。けれど、大人になって、自分もお仕事をするようになったり、いろんなプロフェッショナルと出会うなか、仕事というものの大変さや素晴らしさ、突き詰めれば突き詰めるほど技術が磨かれ、そこに心が込められることで、誰かの心や生活までもを豊かにする。仕事をするということはただ単に手や頭を使うというだけでなく、そういった人の人生までもを豊かにするほどの大きな力があるのだと知ったのです。

 

と、なんだかお花の話から、実家の庭の話になり、仕事の話にまで広がってしまったけれど、ほんとに、実家の庭は、とっても表情豊かで、当たり前に見ていたわりにはきちんと記憶に刻まれているのだから、それはすごいことなんですよねきっと。両親や庭師の方など、人の気持ちがそこ(庭)にあったからこそ、人生20年にも満たないまだまだ甘ちゃんガキんちょのわたしにだってちゃんとその気持ちは届いた。そう思うと、仕事に心を向けること、素直に向き合って一つひとつしていくことがどれほど大切なことなのかと思わされる。技術をどれだけ磨いても、経験を積んでも、心のないものはやっぱり届かないし、響かないし、残っていかない。もちろんそれだけでは仕事として成り立たないこともあるかもしれないけれど、心だけは失いなくないなあと思う。わたし自身も辛くもなってしまうし。

 

お花一つで今から過去にまで時間が巡ってつながるって、なんだか不思議だけれど面白い。母はなぜ花が好きだったのだろう。玄関に花を生けていたのだろう。庭に咲いていたのは朝顔と、あとはなんだっただろう。覚えていない。黄色や白色の小さな花もあったような気がするけれど、うる覚えだから自信がない。だけどあの花だけはよく覚えている。時計草という、まるでほんとに時計のような花。ちゃんと秒針時針みたいなのがあって、フワーっと細かな花びらが広がっているあの花を、母が「これは時計草っていうんだよ。ほんとに時計みたいでしょ?」といったことと、その花の日記を小学生だったかの頃に書いた記憶、これは結構確かだから自信がある。

 

母は花を通じてわたしに何かを伝えたかったのか、それとも単に花が好きなのか。理由はよくわからないけれど、でも思うのは、花があると、そのお家がちゃんと生きているというか、空気や水がちゃんと循環して巡っているような、そんな気がする。そこに人が生きていて、花に水をやって育てて枯れるまでのその時間をその花とともに生活する、そんな余裕があると。

 

花を生けたことや、花を飾ることのないわたしだけれど、もしも飾れるならば、花のある生活、ちょっとあこがれるなあ。昔はそんなこと思わなかったけれど、それは、昔はあまり仲良くなかった母とこの頃はちゃんと話せるようになったからなのかもしれない。母に似ているところがあっても受け入れられないでいたけれど、最近ではやっぱり親子なんだなと素直に思えるようになって、ちょっと面白いなって笑えるようにもなった。それはまるで、わたしの人生をゆっくり照らす光の道標のように。安心して生きればいいといわれているように。