お盆やすみ。

世間はお盆やすみだという。

そんなわたしもお盆やすみ。

なんというか、毎日が楽しい。

 

仕事をしなくていいし

パソコンでパチパチ文章を打つこともなく

ひたすら大好きな読書三昧。

腱鞘炎ともすっかり距離を置いて

なんだか優雅な毎日を過ごしている。

 

何か特別な買い物や

美味しい食べ物や

素敵なお洋服を着て過ごしているわけではないけれど

時間の使い方にゆとりがあるだけで

こんなにも満たされた気分になれるだなんて。

こんな大切なこと

学校や親や大人たちは教えてくれただろうか。

わたしがまだ子どもだったころに。

 

そう思うと

本には本当のことがたくさん書いてあるな

と思う。

生きていくうえで大切なことを本は教えてくれる。

 

 

よいこととよくないこと。どんなことも、表裏一体。

普段はインタビューの執筆のお仕事をしています。

あがり症のわたしは、主に執筆のみを担当。

音源やお写真、関連資料などを送っていただいて、執筆します。

 

この仕事、わたしには向いているな、と思ったり。

というのも、昔っから隣の芝は青く見えちゃうタイプで、

つねに周りと自分とを比べては、自分はぜんぜんダーメだーァと思ってきた人間なのですが、それは裏を返せば「人のよいところがよく見える」ということでもあるのです。

 

ということに気づいたのは、インタビューのお仕事をはじめてからだったわけですが。

 

さまざまな方のインタビュー音源を聴くたびに、

素敵なその方のお写真を拝見するたびに、

なんて魅力的な人なんだろう!

こんなところにも、あんなところにも、いいところがたくさん!!

そう思いながらいつも執筆させていただくのは、

なんとも幸せだぁと思ったり。

もちろん大変なこともたくさんあるけれど、

いろんな素敵な方々の人生のお話を聞いて

わたし自身が刺激を受けることも多々あり。

この人もがんばっているんだから、わたしもがんばろう。

なんだか、一人じゃないな、と思えたり。

力をもらえるんです。そんな幸せな仕事、なかなかないなと。

 

まさか、昔っから自分のダメなところと思っていた性格の一部分が

大人になって、こういったかたちで役に立つだなんて予想もしていなかったなぁ。

そう思うと、人生ってほんとになにがあるかわかりませんね。

お久しぶりです。

久しぶりのブログ更新。

誰かが読んでくださっているのか、それすらまったくわかりませんが。

でもなんか、あれですね。

書くってなんか、いいですね。

たぶん、よく、そう聞きますし……。

 

これまでもっと自由に書いてきたように思う。

でも、書くことが仕事になると

ぐっと言葉との距離が近くなって、

書くことってこんなに大変なことなのか

と知ってしまった。

そうなると、

書くときに体力がいるようになるんですよね。

 

いろんなことを

グルグルグルグル

……

頭のなかで巡り巡って

考えすぎて

結局一文字も書けない。

それの繰り返しで

あるときからはブログページに入ること

すらやらなくなってしまう。

 

そんな感じでした。

ここ数ヶ月。

 

そんなわたしが久しぶりにブログを書こう!

と思ったのは

仕事が落ち着いたことと

素晴らしい舞台を観て

心がぐーっと動いたからなんです。

 

素直に、ああ、なんか書こう、と思った。

周りから見れば微々たる一歩ですが

わたしからすると

何かがまた動きだす予兆のような感じで

わくわくします。

 

そういえば……

わたしは昔から物欲がすごい方なのですが

欲しいのは

そこから何かが広がっていく

想像を掻き立てるようなもの。

たとえば、完成された絵よりも

色鉛筆と画用紙の方が嬉しい。

そこに何を描くのか自分次第、

どんな絵を描くのか

それすら描く前はまったくわからない。

たとえ自分が描くとしても。

その先のわからなさ

未知なる世界へと向かうその手前が

たまらない。

気持ちが小さく弾むような。

大きく感情が揺さぶられはせずとも。

その感覚がわたし好みです。

 

そんな感じでこの久しぶりなブログも

未知なる世界への第一歩の手前くらい。

といいつつ、

次回のブログはいつになることやら。

それすら未知です。

わたしにもわからん。

どっさり と本

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なんかこううーんって感じで気付けば本屋にいました。今年はそれほど働いていないしそれはイコール収入もあまりないということであり欲しい本があったとしてもすぐに購入するという流れにはならなかったここ数日。けれどもそれにももう我慢がならないというところまできてしまってさらに少しお金が入ったので本屋で久しぶりに直感的に欲しいとなった本を気ままに買うということを先週末にしました。とても心が安定した。いいのか悪いのかな買い物中毒というものなのか。けれども言い訳するつもりもないけれども、わたしにとって本というものの存在はそれほど大切なもので、誰かからすると一冊の本という存在であったとしても、わたしにとってその本から受ける影響は人生を大きく変えてしまうというか震えさせるほどの影響力があるというか、精神安定剤のようなものでもあり、育ての親であり、頻繁に連絡をしなくともつながっている感覚になる兄弟のようなものであり、ちょっと聞いてよと連絡できる友人のようでもあり、生まれてから今もそしてこれから死ぬまでずっとともにする唯一の存在であるわたし自身のようでもある。近くて遠い程よい距離にいながら実はわたしの内側にいた、みたいな唯一無二な存在なんです。だからしばらく本を買うことを我慢していた間につもり積もった気持ちがその日にちょっとだけ爆発をした。

 

本を読みたきゃ図書館へ行けばいいだけのことなんだけれども、本を買って所有するということがわたしにとってなぜ必要なのか。それは、ふとまた読みたいと思ったときにすぐに手に取れるということもそうだし、なんとなく本棚を眺めていて、あ、また読みたい、と思ったときのなんというか久しぶりに懐かしい友人とか昔よく遊んでいた同級生とたまたますれ違ってお茶でもみたいなあの偶然性がもたらす喜びとか。そしてもう一つ。

 

実家に帰ると祖母と祖父、そして父が購入した本が収納されている古い本棚があり、決して大きなものではないけれど、そこから本を拝借するのがここ数年楽しくて。それは亡くなった祖母や祖父と本を通じて再会しているような感覚になる。不思議と探していた本がそこにあったという経験も数度。若いころはそんなことを思ったことなどなかったけれど、命はつながってるんだなぁ、と気づく。

 

わたしには子どもはいないけれど、本を手元に置いておくというのはわたしの歴史がここにあるということとイコールで、わたしがこの世からいなくなったのち、誰かがわたしのそんな部分に触れてくれることがあったならなんだかいいなぁとちょっとだけ期待する。そんな未来のために本を買っているところもある。と、来月請求されるであろうクレジットの明細を見るのを躊躇しているわたしは、そんなことを思いながらそして書きながら言い訳している。でも本の存在がわたしにとって大切であるのだけは確か。

ショートからショートへ

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髪の毛をすっきりと切ってきました。いつもの美容室で、いつもの美容師さんに。

家から車で1時間ほどのところにある行きつけの美容室のオーナーさんは、もともと違うお店にいた方で。そのときから数えると、かれこれ15年ほどのお付き合いになる。とことん信頼し、いつもだいたい「おまかせ」で、仕上がりも毎度大満足。一度カラー剤とブリーチ剤を間違われてしまったことがあって、前髪にキンキンの金髪メッシュが入ったときには流石に驚いたけれども、まあ、これはこれで……となった。がしかし、当時、医療関係の真面目な職場で働いていたので、職場の方も上司も、わたしの髪の毛を見た途端に「わあ!」と言われたのだった。

 

今はすっかり黒髪のショートというとてもシンプルで、「the普通」、な髪型をしている自分だけれど、15年間の間にはほんとうにいろんなヘアスタイルを楽しんだものだ。

腰まであるロングヘア、それをカットして肩までくらいのボブにし、刈り上げなんかにもしたことがあったな。独立をしてフリーランスになってからは、金髪やブルー、ピンク、紫などなど、いろんなヘアカラーも楽しんだ。

途中、金髪メッシュを挟むものの、そのどのヘアスタイルも気に入っている。まるで、自分の人生経験の一部のようにもなっている。

 

ある友人が「髪の毛を変えるだけで、気分までガラリと変わるんだよね」といっていたけれど、ほんとに髪の毛の色を変えるだけでも新しい自分になれるような気がして、それもあっていろんな髪色をオーダーしていたんだろうな。なんか気分が乗らないし、いっちょ髪型でも変えるか!という気分のときは、やっぱりちょっと大胆なオーダーとかをしていたし。そうすることで昨日までの自分をまるでリセットできたかのような気持ちにもなれるし。そう思うと、美容師さんはすごい仕事だよな。人の髪の毛だけを切ったり染めたりしているようで、実はその人の内面にまで大きな影響を与えてしまうのだから。しかも切ってしまった髪の毛は元には戻せないわけで。わたしのように、テキストやイラストを書いて、失敗したな、と思ってcommand Zを押すわけにもいかず。

 

今回は、ちょっと伸びてショートボブになってた髪を、すっきりと刈り上げで短めのショートへ。サイドは耳にかけなくても耳が見えるくらいの短さで。前髪は目の上あたりに切ってもらい、伸びたらサイドに流せるように。そんな感じで、伸びるたびにその変化も楽しめるような感じにしてもらった。なんだか顔まわりの髪の毛が短くなって量もかなり減らしてもらったからなのか、頭が軽いしついでに気分も軽やか。ショートからショートへの変化はロングからボブへの変化に比べるとしれているかもしれないけれど、なんというか体感的な部分が大きくて、すっかり新しい日々が始まったなぁといった清々しい気分の今です。改めて、美容師さんってすごいな。

hairpins

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ヘアピンをちょこちょこと買い集めています。理由は、前髪をとめたいから。ただそれだけ。それだけなんだけど、やっぱりちょっと、かわいいのが欲しくなる。あと、髪の毛にピンの跡がつかないようなもの。できればカラフルで、形もいろいろ、素材なんかも個性豊かに揃えたいなあというのが本音。けれど、まだそこまでではないのが無念ね。

 

手持ちのヘアピンのなかでとくに気に入っているのは、ウネウネしている平べったいピン。なんというか、ヒラメの淵をウネウネさせてぺっちゃんこにしちゃったような形をしている。小さくてどこか頼りない感じなんだけれど、しっかり前髪をホールドしてくれて、さらに前髪にピンの跡もつかないし、軽い。うれしい三拍子が揃っている。ちなみに同じようなもので形の違うものもあって、それはロケットを縦に薄くスライスしたような形をしている。

 

たかがヘアピン。されどヘアピン。昔ながらの華奢な線でできているアメピンもいいけれど、いろんな形、いろんな色のピンがあれば、前髪をとめて鏡を見たときにちょっとだけにやっとできる。この「ちょっと」というのが大事。すんごく上がる、だと、なんだか飽きるまでのスピードが早い気がして。なんというか「丁度いい」のほんの少し上に位置するくらい、日常をがらりと塗り替えはしなくても、口角は上がる。このくらいがよし。

お花のある生活にちょっとだけあこがれる。

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お花のある生活とは無縁な生活者です。理由として、お花にあんまり興味がないから。と、猫を飼っているから、です。でもね、わたしの母はお花が好きでね、実家には常にお花がありました。リビング、キッチン、そして玄関。庭にはお花とともに、緑もたくさんありました。松とかそんな立派なものではなかったけれど、庭師さんが定期的にいらしてきれいに整えて下さっていたのだそう。当時のわたしはそんなこと知らなくて、大人になってから聞かされました。いつも見ていたキッチンの窓からの庭の景色。あれは、誰かの手によりきちんと整えられていたものなのだと。そこへの感謝は全くなくて、それはとても当たり前のものだと、きちんとした価値すら見出せていたなかった。けれど、大人になって、自分もお仕事をするようになったり、いろんなプロフェッショナルと出会うなか、仕事というものの大変さや素晴らしさ、突き詰めれば突き詰めるほど技術が磨かれ、そこに心が込められることで、誰かの心や生活までもを豊かにする。仕事をするということはただ単に手や頭を使うというだけでなく、そういった人の人生までもを豊かにするほどの大きな力があるのだと知ったのです。

 

と、なんだかお花の話から、実家の庭の話になり、仕事の話にまで広がってしまったけれど、ほんとに、実家の庭は、とっても表情豊かで、当たり前に見ていたわりにはきちんと記憶に刻まれているのだから、それはすごいことなんですよねきっと。両親や庭師の方など、人の気持ちがそこ(庭)にあったからこそ、人生20年にも満たないまだまだ甘ちゃんガキんちょのわたしにだってちゃんとその気持ちは届いた。そう思うと、仕事に心を向けること、素直に向き合って一つひとつしていくことがどれほど大切なことなのかと思わされる。技術をどれだけ磨いても、経験を積んでも、心のないものはやっぱり届かないし、響かないし、残っていかない。もちろんそれだけでは仕事として成り立たないこともあるかもしれないけれど、心だけは失いなくないなあと思う。わたし自身も辛くもなってしまうし。

 

お花一つで今から過去にまで時間が巡ってつながるって、なんだか不思議だけれど面白い。母はなぜ花が好きだったのだろう。玄関に花を生けていたのだろう。庭に咲いていたのは朝顔と、あとはなんだっただろう。覚えていない。黄色や白色の小さな花もあったような気がするけれど、うる覚えだから自信がない。だけどあの花だけはよく覚えている。時計草という、まるでほんとに時計のような花。ちゃんと秒針時針みたいなのがあって、フワーっと細かな花びらが広がっているあの花を、母が「これは時計草っていうんだよ。ほんとに時計みたいでしょ?」といったことと、その花の日記を小学生だったかの頃に書いた記憶、これは結構確かだから自信がある。

 

母は花を通じてわたしに何かを伝えたかったのか、それとも単に花が好きなのか。理由はよくわからないけれど、でも思うのは、花があると、そのお家がちゃんと生きているというか、空気や水がちゃんと循環して巡っているような、そんな気がする。そこに人が生きていて、花に水をやって育てて枯れるまでのその時間をその花とともに生活する、そんな余裕があると。

 

花を生けたことや、花を飾ることのないわたしだけれど、もしも飾れるならば、花のある生活、ちょっとあこがれるなあ。昔はそんなこと思わなかったけれど、それは、昔はあまり仲良くなかった母とこの頃はちゃんと話せるようになったからなのかもしれない。母に似ているところがあっても受け入れられないでいたけれど、最近ではやっぱり親子なんだなと素直に思えるようになって、ちょっと面白いなって笑えるようにもなった。それはまるで、わたしの人生をゆっくり照らす光の道標のように。安心して生きればいいといわれているように。