大切なのは、どう書くかより、なにを書くのか
「文章を書いてみたら?」
個人的な理由で仕事を急に辞めなければならなくなったわたしに、ある一人の友人がかけてくれたこの言葉が、わたしのライター人生の始まりだった。
自分が文章を書いてお金を稼ぐだなんて、これまで一度も考えたことなどない。趣味でブログは書いてはいたけれど、まさか仕事にするだなんて、と。
でも、次の仕事が決まっているわけではないし、なにかしなくちゃなあとは思ってはいたし、「次の仕事が見つかるまで、やってみるか」と、そんな軽い気持ちでとりあえず友人が教えてくれたネットの求人サイトに登録し、まずはタスク形式の仕事から始めてみることに。
■自分の書く文章がコンプレックスでしかなかった
一つの仕事で得られる収益は、50円~300円程度。それで2000文字くらい書かなければならないのだから、今思い返せばよくやっていたな、無茶だな、と思う。けれどそのときはなんだかゲーム感覚で、納品できれば「やった!チャリーン!」と頭の中で小銭が落ちる音がする。
この手軽さが、逆に当時の自分にはぴったりだったのかもしれない。ライターとしてのスキルもないし、これでやっていこうという強い意志もない。すっかりハマってしまって寝る間も惜しんでひたすら書く。書く書く書く。
そして無我夢中で書き続けていたら、継続の仕事が入るようになったのだった。しかしそうなると、うれしい反面求められるレベルも上がっていく。となるとうかうかしていられない。楽しいばかりじゃいられない。
書けるようにならなければといった焦りがふつふつ湧き上がり、わたしは雑誌から小説から取説からパッケージに記載されている商品説明欄から、とにかくジャンルレスにいろんなものを見て学んだ。
そして、はたと気づいたのだった。
これまで自分がいかにこの世の中に溢れている言葉を、軽やかに無視してきたかということに。そして、言葉というものが、世の中をどれだけ支えているのかということも。
振り返ってみる。自分の書いてきた文章はどうなのか。それらと比べてどうなのか。
ライターになりたくてなったんじゃない。たまたま友人にすすめられたからなんとなくライターをやっているんだ。そんな言い訳だってできたかもしれない。
けれどそんな言い訳が出てくる暇などなかった。自分の文章の下手っぷりに逆に感動したほどだった。涙が出そうだった。出なかったけど。でも泣きたくはなった。
こんなのでよくぞライターなんかやっているな、と恥ずかしさと申し訳なさが襲ってきた。うまくならなきゃ。じゃなきゃ、やってちゃダメだ。
■かっこよくて素敵な「文体」にただただ憧れて
具体的に自分の書く文章のとこがダメなのかを知るために、一緒に暮らす夫に書いたものを読んでもらうことにした。彼はライターではないが、日頃から趣味が読書で、それなりに言葉に触れているから目は肥えているはず。
そしていわれた夫からの一言は、「なんか、田舎くさい」。妙に納得してしまった。
まずもって語彙力が不足しているし、語尾がほぼほぼ一緒。そしてなにより、いいこと言ってやるぞ!という、狙ってる感じが、一番、いたい、とのこと。なにがつらいって、それに本人が気づけていないことよ。
なんというか、田舎から都会に上京したてで、精一杯おしゃれをして頑張ってはいるけれど、洋服とヘアとメイクに統一感がなく、たとえ身に付けていうものがちゃんとしたものであったとしても、着こなせていないといった感じなのだそう。そんな文章を書いているのがわたしなのだそう。
なんでもはじめからうまくできる訳ではないし、たとえ今の自分が着こなせていなくても、頑張っておしゃれをしようという気持ちそのものが悪いわけでは決してない。
ただ。ただ、言葉を通じて社会とつながっていこうとするならば、つながるための術を身に付けなければ、いつまでも同じ場所で足踏みを続けることになる。自己満で終わってしまう。
周りの状況が変わって自分だけが置いてけぼりをくらったとき、きっとわたしは、今のままじゃうまくいかないことを全部周りのせいにしてしまうだろう。だからとにかくたくさん言葉を覚えて、素敵だなと思う文章は何度も読み返して、好きなフレーズはメモをして、ときには模写をしたりした。
そうやって吸収と仕事でのアウトプットを繰り返しているうち、最初と比べてうまく書けるようにはなったと思う。
さすがに、憧れのライターさん、作家さんの書く文章の足元には及ばずとも、提出したものへのリライトの数もかなり減った。おかげで仕事も順調にいただけるようになり、収入も安定した。気づけば目標として掲げていた収入もクリアできた。
だた、そこから見えた景色は、想像していたものとは違った。
この景色を見たくて、わたしはここまでやってきたの?
本当にわたしが見たいのは、こんな景色なの?
■伝えたいことがあるから文章は生まれる
そう、わたしは、憧れのライターさんや作家さんの書く「文体」にばかり憧れを抱いて、その中身をすっぽりと見落としていたのだった。
ただただ表面的な部分にばかりに目を向けて、その言葉たちがなにを伝えるためにそこにあるのかをちゃんと汲み取ろうとできていなかった。かたちばかりに囚われていた。かたちばかりにこだわっていた。
流れるような美しくなめらかな文体。それはまるで音楽のように心地よく、読んでいるだけで癒されるほど。言葉のリズム。適切な場所に置かれた句読点。ユニークかつ鮮明な比喩表現。読むだけでイメージが自然と立ち上がる。そして心まですっと浄化される。
そういったものはただ美しい文章を作り上げるためだけにそこにあるものではなく、書き手が伝えたいことを、読者に伝えるためのもので、書き手に伝えたいことがあってこそ、文章は生まれる。命が宿る。伝わる。
本当にわたしが目指すべきもの、目標とすべきはきっとここなのだろう。それがわかったならばあとは歩くのみ。書くのみ。たとえまた、この景色ではなかったと思うことがあろうとも、そこからまた歩き出せばいい。きっとわたしの人生はこんなことの繰り返しだから。